横田ひできの歩み
1957年(昭和32年)12月14日
父 横田嘉夫、母 横田ひで子の長男として高砂市高砂町沖浜町にて誕生。命名「英樹」
株式会社鐘ヶ淵化学工業(現 株式会社カネカ)の2階建寮社宅で父母・祖母・父の弟の5人家族。
弟 昌嗣 誕生
高砂市立高砂小学校入学。4年生よりカネカの少年団野球チームに所属。体が小さかったため全然目立たず。勉強はそれなりにできたため神戸大学付属明石中学校を受験したが不合格。人生初めての挫折(?)を味わう。
高砂市立高砂中学校入学。勉強で1番、スポーツでも1番を目標に頑張ろうと決心。
バスケット部入部。背が伸びることを期待したが3年間で20センチしか伸びず。
どちらも真面目にコツコツ。2年生で当時あったスポーツテストで学年でただ1人上級合格。勉強の方は学年で1番から3番。2年3学期には生徒会長、バスケットボール部主将に。
兵庫県立加古川東高等学校入学。入学直後のテストで125番、こんな番号見たことなくびっくり。勉強もせず、部活もせず、友達と遊び呆ける。成績どんどんと下がり記憶では450人中300番くらい。
2年生の1学期に友達(運命の出会い)が生徒会長に当選し、風紀委員長に選ばれる。生徒会活動に青春のエネルギーをぶつける。生徒会活動・スポーツ・恋に全力投球。体育祭では実行委員長。自ら提案した新種目「逆立ち競争」で全学年で優勝し、顰蹙を買う。
全然勉強せず、ついに400番台に。3年生の1学期終了時に生徒会卒業、勉強しなければと夏休みから受験勉強スタート。
夏休み明けのテストで200番台になるが大勢が勉強し始めるので受験直前では100番台中盤。神戸大学教育学部を受験するも不合格。もう一年勉強させてと両親に頼み、私学へは入らず浪人。
真面目に勉強。京都大学も合格できる偏差値になるが、通学できる大学をと母親から懇願され神戸大学受験。
国立神戸大学経済学部経済学科入学。燃え尽き症候群。バイト・遊び・麻雀に明け暮れる。
4回生から就職活動、株式会社東レの内定を受けるも、仲の良かった当時大学3年生の弟がバイク運転中にダンプカーにはねられ瀕死の重症。手術が成功しても植物人間になる可能性大と告げられる。
父は仕事、母は病弱なため、私が付きっきりで看病することを決意。約4ヶ月間ICUで寝泊まり。
4ヶ月後に意識回復するも体の大きな赤ん坊と同じ。記憶も知識もゼロ状態で駄々をこねるは暴れるはで大変。弟の先生になろうと決意し就職を断念。卒業しないほうが次の就職に影響が出ないと思い、ゼミの単位を落とすことに。それから病院で4ヶ月、自宅で6ヶ月間、弟の保育園から中学校までの先生をする。それぞれの学年の教科書で黒板を使い毎日弟を教える。
この間の14ヶ月は私の人間形成においても貴重な時間。特にICUで寝泊まりの間での14名の方の死をそばで見守る体験は。
その後、弟は順調に機能回復した。(1982年9月に大学復学した後、就職・結婚し、3児の父となり現在は孫も1人。めでたし、めでたし。)
神戸大学を卒業し、24歳で株式会社兵庫相互銀行(現みなと銀行)入社。明石支店配属。
人付き合いは楽しかったが業務については一生の仕事とはあまり感じずに、真面目に仕事に従事。銀行での先輩(年は二つ下)であった妻と出会う。出納・貸付・営業とそれなりにそつなくこなすが常に物足りなさを感じていた。1984年5月に妻 範子と結婚。1985年4月に長男 啓輔誕生。
高校の同級生(当時の生徒会長 森本幸吉氏)から森本氏が将来の代表になるであろう株式会社森本材木店に入社の誘いがあり、考え相談した末、転職を決意。
入社当時年商8億、資本金3000万円の優良資産保有の地元材木店で、幸吉氏の実父克巳氏が代表。高校大学から頻繁に出入りし幸吉氏のご両親とも懇意。
総務・人事・経理課長を拝命。
幸吉氏と材木店の将来について時間があれば、語り合い。社内起業として2人でホームセンター事業を立ち上げようと決意。建材店をホームセンターに改装して事業に参画する承諾を得る。現業務をこなしながらサポート。3ヶ月間無休、睡眠時間平均4時間のハードな体験。
1986年12月、モリスホームセンター開業。8名のスタッフ全員が小売サービス業未経験。
あまりの激務に耐えかねて翌年2月3名退社。ホームセンター事業部に異動。
DIY部門を担当、小売サービス業の面白さを体験。怒涛の勢いでの業務拡大が始まる。
モリスホームセンター米田店の店長を拝命。
開業前年商が8000万円、オープン後の年商3億円。利益はほぼゼロ。
ホームセンター事業部長を拝命。
店舗面積400坪に拡大、年商10億円。
長女の所属するアミダチェリーズ(女子ソフトボールの地元クラブチーム)が全国大会出場。
長男の所属する高砂市立鹿島中学校野球部が軟式野球全国大会(横浜スタジアム)出場。
ホームセンター事業を多店舗化、多角化からドラッグストア・書店・ビデオレンタルショップ・100円均一ショップを展開する一大事業部に成長。従業員数約300人に。材木店を廃業。流通サービス事業部長に。
長男の所属する神港学園高等学校硬式野球部が第85回全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場。父母の会副会長として貴重な経験を積む。
カンパニー制に移行、営業本部長兼常務取締役を拝命。年商約80億円。
このころよりナショナルチェーンが競合としてモリス出店エリアに次々出店。売上も利益も停滞。他エリアへ出店するも利益貢献するまでは成長せず、スクラップ&ビルドの繰り返し。生き残りをかけた経営改善策を多方面で展開。
これからの8年間が経営者としての学びが最も多い時期となる。
モリス株式会社代表森本幸吉との協議の結果、ホームセンター事業は「(株)いない」へ、ドラッグストア事業は「(株)マツモトキヨシ」へ売却することに。従業員の雇用を守ることを最優先にした内容で実施。
ドラッグストア売却先のマツモトキヨシの子会社「モリスリテール(株)」の取締役社長となるも、実務引継ぎ終了後退社する意思を了解のもとで就任。
新業態開発事業部長を拝命。
このころから地元自治会の運営に参加し、行政との関わりができる。
営業本部長を拝命。
地元自治会では、会長を拝命する。
5月 地元自治会との金銭トラブル(会計処理上の認識の相違)により自治会長除名処分。
最大会派離脱。 神戸新聞に掲載される(自治会とのトラブルのため)。
9月 日本維新の会 入党(特別党員)
建設環境経済常任委員会、総合計画検討特別委員会所属
12月 「横田議員の辞職を求める会」が12月議会に請願書を提出。提案者は共産党の2名の議員。15対2で不採択。